Media interview
今思うと1980年代というのはレコーディング全盛期だったかもしれない
(Sound&Recording Magazine インタビュー)
この連載は音楽に関係ある、あらゆる人々から話を聞くというスタンスでスタートしたそして2年以上たつというのに、
いまだ採り上げていない重要な職業がある。エンジエアである。ミュージシャンと同じくらいの頻度でエンジエアが登場する
サンレコにあってどういう形でこのポジションを紹介したら当連載の独自性が出せるのか? アイディアが浮かばなかったのだ。
が、ある日本のミュージシャン・サィトのリンクを眺めていて1つの名前を目にした。ニック・ジェームス。彼のサイトに飛んでみて驚いた。
1980年にロンドンはマーカス・スタジオでキヤリアをスタートさせ、数々のレコーデイング・セツションをものにしてきた彼。
アメリカでのスタジオ・ワークなども経験した後、1992年からは日本に拠点を移動。MONDAY満ちる、元ちとせ、hideといつた
邦人アーテイストのソロ・デビュー作からCM、サントラまで手掛けている人物なのだ。
折しも1980年代ニユーウエーブが再注目されている今。まさに当時のレコーディング・シーンを肌で感じてきたニツク氏から、
最高に興味深い話をたくさん聞くことができた。
―アシスタントになつた辺りのことからもらえますか?
ボクの実家は北イングランドの牧場でね。隣の村にはビル・ネルソンが住んでいて、
遊びに行ってはホーム・レコーディングの機材を目にしたりしてたんだ。
で、15歳のとき、いろんなスタジオに手紙を書き始めた。
16歳でロンドンに上京してからも、バイトをしながら雇ってくれるところを探して、
1980年にマーカスに入ったんだよ。そこはイギリスで初めて48tr録音を可能にしたスタジオでね。
―アナログのパラまわしで?
そう。STUDER A800とA80の2台でね。でも完全にシンクするまでに40秒。
しかも30%の確立で失敗(笑)。卓はRAMが32KBのコンピューター内蔵のHARRISON(笑)。
デジタル・リバープとかはまだ外部からレンタルの時代だったね。といっても真空管機材は人気無かったな。
一ちよつと意外な……。
当時のイングランドではみんな何か新しいものを求めてたんだ。
特によくウチのスタジオに来るプログラマーはいつも最新の機材を持っててね。
それが若き日のハンス・ジマーだったんだけど、
ボクが知るかぎり彼は最も初期にFAIRLIGHT CMIを買つた一人のはず。
あのころピーター・ガプリエルもFAIRLIGHTを扱う会社をやってたなあ。
そういえばある夜、ハンスがスタジオに置きっばなしにしたCMIに
フロッピー・ディスクを入れてみたんだけどね。
そしたら変なニオイがし始めた。あわてて力まかせにディスクを抜いたら真っ二つになって(笑)。
マーカスの近くにはトレヴァー・ホーンのスタジオもあって、よく向こうのエンジエアがウチに来た。
こっちには2台のMTRがあったんでテープをコピーしにね。コピーをするのはボクの役のことが多く、
そこでトレヴァーの最新の音を聴けたんだよね。
一なんてラッキーな。
ほんと1980年代は毎日がエキサイティング、毎年がレポリューションだった。
あの時代のイングランドの音を決定付けたデジタル・リバーブAMS RMX16が登場して、
LINN LinnDrumが出て、ROLAND Jupiter 8が出て、MIDI規格が登場して。
当時からキーボードも弾いていたボクは自分のROLAND IX 3Pと、
友達のYAMAHA DX7をMIDIでつないで感動したんだけど、
あれはイングランドで一番最初にMIDIが使われた例じゃないかな(笑)。
後、人材にも恵まれていたしね。
一というと?
あのころは、まだビートルズの時代からのエンジニア、アナログ・ゴッドたちがたくさんいたんだよね。
彼らからはいろんなことを学んだ。アレックス・サドキンとは
僕がキーボードを弾いたクラシックス・ヌーボーのアルバムで一緒だつたし、
エディー・クレイマーのアシスタントとして2カ月仕事をしたこともある。
クイーンの『オペラ座の夜』『華麗なるレース』を手掛けたマイク・ストーンからは
マイク・テクニックやコンプについて学んだ。
またマーカスのメインテナンスはツェッペリン最後のスタジオ・アルバム
『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』のエンジニア、レイフ・メイシスだったりもしてね。
彼からは電気的な知識を教えてもらつた。
一すごい講師陣ですね
世界一の学びの場だったと思うね。こっちも若かったから吸収も早かつたし。
今にして思うと1980年代つていうのはレコーディング黄金時代の最後だつたんじゃないかなあ。
日本は機材のメンテナンスがいい エンジニアも誇りを持ってやっている
一アメリカで仕事していたころのことも闘かせてください。
1987年にとある友達に頼まれてニユーヨークに行ったんだ。
僕がデュラン・デュランのフロントマンであるサイモン・ル・ボンのソロをやったったことで、
あるアメリカのバンドをブリティッシュ・ニューウェープ風の音にしたかったみたいなんだ。
ところが、いざそのバンドと会つてみたら、どう見てもヘビー・メタル・ガイでね。
長いパーマ・ヘアにピンクのパンツつていう(笑)。
ボクの感覚で言うと当時のアメリカはイングランドより数年遅れてた感じだね。
あとニューヨークはとにかく怖かつた。で、結局6カ月ぐらいでイングランドに戻つたんだ。
一日本に来てみての印象はどうでしたか?
いちばんビツクリしたのは譜面を見て音楽をやる人が多いことだね。
それつてイングランドじゃ見たことない光景だつたからね。
ポール・マッカートニーも、ミック・ジャガーも、ジミー・ベイジも、誰も譜面は見ない。
クラシックやジャズ、CMの収録は別だけど、ことポップスやロックではね。
そこは日本ってアメリカと似てるのかもしれない。
あと、イングランドでのバンド・レコーデイングはパーティみたいなものなんだよね。
みんな飲んだりしながらやつてる。日本はそうじやないよね。
向こうの感覚で言うと時間の決められたCM録りのようで(笑)。
一逆に日本のいいところは?
ミュージシヤンのノリが柔らかい。向こうはみんなフリーにやつてる分、
たまにモンスターみたいな性格の奴がいて、そういうのがいるとスタジオ内がカオスになるんだ(笑)。
そしてレコーディング・スタッフは彼らのエゴの犠牲になる。そういうことがストレスになつて
26、7歳でやめるエンジニアも多いしね。プロデユーサーやレコード会社のディレクターに転向するとかして。
ボクが入ったころのマーカスだつて、最年長のエンジエアは25歳だったし。
一日本とは全然違うんですね。
多分、日本のスタジオより雇用条件は良くないから、体力のある間しかもたないんだよ。
中には長く続けている人もいるにはせよ、ね。
ボクもアシンスタント時代は3日徹夜したり、ドラム・ルームで寝たりしてたし(笑)。
それから、日本のスタジオは機材のメンテナンスがいい。
スタッフもそこにプライドを持っている。ロンドンだと20%ぐらいのマイクは壊れていたりして、
オーケストラやドラムを録るときは大変だったりするんだ(笑)。
一現在は自宅にもスタジオを構えられてますが、その理由は?
Pro Toolsの中でミックスするぶんには場所はどこでもいいからね。
それに家だったらより音楽にフォーカスすることも、たつぷり時間をかけることもできる。価格も安いしね。
かつてFAIRLIGHT CMIはノッティングヒルの2ベッド・ルームのアパートと、
SEQUENTIAL Prophet‐5はファミリー・カーと同じ値段だったのと比べるとね(笑)。
それにニュー・テクノロジーは才能のある人たちに向けて扉を開いてくれた。
結果、たくさんのベッドルーム・エンジニアが生まれた。
だけどね、そのせいで外部スタジオの経営は苦しくなってきている。
だからボクは自宅で作業しつつも、彼らに対してすまない気持ちになっていたりもするんだよ。
§
その優しい言葉を聞いた途端、頭の中を1980年代のヒット・チューンが流れた。
「VIDEO KILLED THE RADIO STAR」という歌が。
(Sound&Recording Magazine 2008.11月号)